| 02.親父と「出会い」 03月25日 17:33 |

- ワシントン講演(再録7)

鰊の山椒漬け
しかし幕末まで会津へは主に新潟からはこばれてきておりました。 弘化四十年十二月十六日の暮れも押し迫った頃、会津領の阿賀野川貝喰という難所で、越後からの商人四十四人を乗せた下り舟が転覆し多数の死傷者を出す事故が起きたことがあります。

この時の溺死者のほとんどは、越後よりの鰊売りの娘たちであったといわれています。いずれも五ヶ浜辺りの貧しい漁村の娘たちで、会津へ年取りのために使う鰊を売りにきた帰りにこの事故に遭っているわけであります


会津藩の記録にも、寛政二年頃から鰊売りの娘たちが城下にあらわれたと記録されています。赤い前垂れをした塩汲み姿で、桶二つに鰊を詰め、天秤棒にさげて「鰊いらしゃりませんかぇー」と唱えながら市中を売り歩いたという。なかなか色っぽかったらしく、文政年間に編纂された「徒ノ町百首俗歌」の中にも、下級武士と鰊売りの娘たちとの人間くさいドラマが狂歌として詠まれています。

文化年間前後になりますと本郷焼も隆盛期を迎えます。又人別長などを見ておりますと、醤油や味噌の醸造が盛んになってまいります。県立博物館にこの時代の年号が入った鰊鉢がありますがすでにこの時代に「鰊の山椒漬け」は完成していた事がわかります。

おそらく様々な偶然がこの会津を代表する郷土料理を無理のない形で生み出されたと想像するわけであります。

話は変わりますが、鰊の山椒漬けになぜ山椒の葉を使用するか考えてみた事がおありでしょうか。なぜでしょうか?いささか汚い話になりますが。山椒の香や味付けのために用いられたというのは残念ながら本来の目的ではありません。

冷蔵庫が無い時代醸造業の大敵は「ショウジヨウハエ」であります。桶の周りに匂いに寄せられて卵を産み付けます。山椒の葉はその虫除けのためだったのです。

味や香は2次的なものです。又鰊の油は灯明用として使われました。その搾りかすが肥料として大量に本土に持ち込まれます。 天明期の蝦夷地では、食用以外の農業用肥料として鰊粕の生産もさかんになります。


天明の頃、諸国巡見使一行とともに、東北、蝦夷を訪れた古川古松軒の著わした「東遊雑記」に、この辺りに触れた記述があります。 「数の子は全国に出回り、魚肥としての干し鰊は昔は北国だけであった。いまは近江近在五磯内、両国筋まで田畑の養となす。干しいわしより理方よしという、関東いまだこの益あるをしらず」と書き残している。どうも関東方面には食料としても肥料としてもあまり出回らなかったようであります。


江戸前の新鮮な魚介類、千葉沖の大量に取れる鰯の漁獲とも相まって、江戸では鰊は軽視されます。従って調べてみますと、江戸時代に江戸市中で発刊された料理書には、鰊はほとんど登場しません。会津や京都周辺に似た食文化があるのも、このような視点から見ればうなずけます。


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